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室町幕府と禅宗

室町幕府と禅宗             

●鎌倉武士と禅宗
 周知のとおり、日本における禅宗は鎌倉時代に栄西(臨済宗)・道元(曹洞宗)によってもたらされた。鎌倉時代には禅宗のほかに、浄土宗(法然)・浄土真宗(親鸞)・日蓮宗(日蓮)・時宗(一遍)などの新仏教が誕生した時代であり、それぞれが発展を遂げたが、これらの新仏教の中で、政治の中心であった武士に支持されたのが禅宗(特に臨済宗)であった。これは、執権北条氏一族が栄西の活動を早期に支持し、来日した宋(中国)僧を優遇したことに依るが、これは、既成教団(天台・真言・華厳・律)と深く結びついていた京都の貴族に対抗するためや、「不立文字、教外別伝、即心是仏」(文字によって教えを立てず、教義や文字にとらわれずに、心をもって心を伝え、人間が備えている仏性を見出すことが禅の目的であり、天台宗や真言宗の外にあるものでそれらの兼修はまったく方便に過ぎない)という思想が、貴族政権に変わって勃興した武家政権にとって最も必要とされたためと考えられる。このように禅宗は、次代の室町時代に至ってもより深く結びついていく。

●室町幕府と禅宗(臨済宗)
 北条氏が滅び、後醍醐天皇の「建武の新政」の後、権力を握った足利尊氏・直義兄弟は臨済宗の僧夢窓疎(むそうそせき)を厚く保護し、天龍寺の創建、五山十刹制(南宋の官寺制にならった寺格を決めて寺院を統制する制度=最高格が京都五山、のちに相国寺が加わり南禅寺が別格となる)の制定等を実施するなどし、室町幕府における臨済宗の地位を確実なものとした。  【五山の制】(すべて臨済宗)
  上位 南禅寺
  一位 天龍寺
  二位 相国寺(金閣寺・銀閣寺も相国寺派)
  三位 建仁寺
  四位 東福寺
  五位 万寿時 







退蔵院・枯山水元信の庭 ●大徳寺と妙心寺
 大徳寺・妙心寺は臨済宗の中でも林下(りんか)と呼ばれ、権力のもとに保護された五山の寺院に対し、より自由な活動を求めて民間布教に努めた寺院の代表である。
 応仁の乱の後、政界権力者の衰退にともなって衰えた五山の寺院とは対照的に、大徳寺・妙心寺両寺院は大きく成長した。(ちなみ今回のコースにある龍安寺は妙心寺派のお寺です)
 その理由として、京や堺の新興商工業者、地方の大名や役人階級の武士に布教線拡張し、信徒の層を厚くしたことが大きく関係している。また、塔頭(たっちゅう)の数も五山の寺院では戦火にまみれて減少の一途をたどるが、大徳寺・妙心寺は次代の政権を担う新興武士や商工業者の支持を受け、ますますその数も規模も増大し、すぐれた美術・工芸品もそこに集まるようになった。








禅宗の美             

●水墨画
 水墨画の発生は色彩の否定にある。それは老荘の思想からくるもので、花卉草木・雲・雪・山は絵具をもちいなくとも、すでに色彩があらわれていて、色彩に気をとられていると物質の真の姿は見失われるという。
 鎌倉時代中期から後期にかけて、中国から宋元画が輸入されたが、おもに「達磨図」や「寒山図」・「布袋図」などの道釈人物が中心で、花鳥、山水画はまだ浸透しなかった。室町時代に入ると日本でも盛んに水墨画が描かれるようになり、自らも水墨画を描く4代将軍足利義持の時、禅画(詩画軸)が特に盛んに描かれた。
 有名な「瓢鮎図」(妙心寺退蔵院)は義持が如拙(じょせつ)に描かせたもので、瓢箪で鯰(なまず)を捕らえる男が山水の背景の前に描かれている。



 その絵の上には30人ほどの禅僧が瓢箪で鯰を捕らえるという禅の公案についての答えを書き入れており、この時代傾向である「詩画軸」の代表傑作といえる。如拙の弟子周文は室町水墨画の確立者といえるが、中国の山水画を特に取り入れた。中国の自然を歌った詩から山水を想像し、日本の風景と重ねて描いた詩画軸が盛んに描かれるようになった。
 応仁の乱が勃発すると、それら詩画軸を描いていた禅僧が近江に逃れ、そこで中国洞庭湖の風景を描いた「瀟湘八景図」を模して、琵琶湖の風景を題材に「近江八景」が山水画として描かれました。
 周文の弟子雪舟は、中国山水画への憧憬に基づきながらも、独特の筆法を打ち立て、後世の日本絵画に少なからず影響を与えていくことをみると日本を代表する画家の一人に数えられる。
 室町時代の水墨画は山水画を中心として人物画をとっても、中国の自然への憧れを抜きに語ることはできないが、減筆、にじみなどの筆法や極端な余白、画面の連続性等は日本独特の禅の精神に裏付けられ、日本美術の特殊性をみることができる。




●枯山水庭園
 龍安寺や大徳寺大仙寺の庭に代表されるような枯山水様式とは、水景を描写する場合に、水そのものを用いず、水底・水面あるいは水辺の風景を他の材料(おもに白砂)によってつくりだしたものである。水を用いずして水を表現するということは、水なきところに水をみるということであって、いかにも禅宗の逆説的な表現の象徴に感じる。
 枯山水庭園を形から見ると、二種類の形に気付く。一つは、本来なにもない平地のままで、わずかに石を置き、樹を植えるなど最小限の修飾をしたもの(龍安寺型)であり、もう一方は旧来の林泉庭園を縮小、集約して山水の景観にまとめたもの(大徳寺大仙院型)である。
 

 前者は石の配置の面白さ、後者は水墨山水画の景色を見るのが普通である。禅院の方丈とその南庭は儀式の場となり、明るい空間を保つ必要があるので前者の形式を取り、書院のような日常生活の場所に対しては後者の形式となることが多い。
 このような枯山水庭園は、室町幕府から禅思想を背景に誕生したが、やがて他宗にも迎えられ、次第に一般住宅にも取り入れられるようになる。小面積の中で作庭するには最適で、現代の近代建築の中にも、坪庭としてあらわれる。近年は欧米でも日本文化の代表選手のように扱われ、芸術の枠を越えた日本の代名詞となっている。












歴史通史と美術の特色(室町時代)             

 源頼朝にはじまる鎌倉時代(1192〜)は、やがて執権北条氏の時代を迎えたが、元弘3年(1333)、後醍醐天皇を背景として幕府の御家人足利尊氏、新田義貞の反旗によって滅んだ。後醍醐天皇は公家(皇族・貴族)と武家の公武合体型の政権を築く(建武の新政)が、折り合い悪く、暦応3年(1338)足利尊氏によって新たな武家政権(北朝)が京都に樹立された。しかし、後醍醐天皇が奈良に南朝を立てて、北朝と対立したため、明徳(1392)まで全国各地で争いが続いた。
 一般的に足利尊氏にはじまる武家政権を室町幕府と呼んでいるが、その由来は、3代将軍義満が、永和4年(1378)京都室町(京都市上京区)に花の御所と呼ばれる私邸を築いたことによる。この義満の時代に先述のとおり南北朝が合一されたが、これ以降も、地方の守護大名の反乱が絶えず、8代将軍義政の時の1467年、応仁の乱が勃発し、地方大名の台頭、織田信長の登場を許した。
 室町時代は足利尊氏家を中心とした細川・斯波・畠山・山名・京極家等の有力武家の緩やかな連合政権であり、地方大名の反乱をはじめ、農民の蜂起や宗教一揆が頻発し、非常に不安定な時代であったといえる。


 経済の面では日明貿易で大量の貨幣を輸入したことで貨幣経済が浸透し、高利貸しや質屋などの金融業が発達した時代でもある。
 文化の面では、日本文化誕生の時代といえる。美術は当然のこと、食文化においても醤油・納豆・豆腐などがつくられ、味付けにおいても日本の味が生まれたといわれる。
 芸能の分野でも能・狂言がこの時代のもので、茶道・華道も産声を上げた。美術では水墨画が描かれ、枯山水の庭園、書院造りが完成した。そして、それらの根底を成す思想として、「禅」が僧侶を中心としながら積極的に生活の中に取り入れられるようになった。

 明治以降、大量の西洋文化が流入し、第二次大戦後はアメリカの文化がわれわれの生活に入り込んだが、その中でも日本的な物は忘れられず身のまわりに多く発見することができる。土の味がする陶器の器・和紙でできたインテリア・障子・畳・喫茶・余白の多い絵画・モノトーンの色調。これら日本人が愛する色・匂い・味・感触・雰囲気すべてが、室町時代に誕生し、育てられてきたと言っても過言ではない。
 国際社会の中で日本の立場を問われるこの時代。海外の文化事情を理解することも大切であるが、室町時代の中心地であった京都の史跡を訪ね、その美に触れることで、日本の原点を探ることもこのIT時代には特に必要なのかもしれない。



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