韓国・日本 のんびり旅・色々

歴史街道 日本の美


古代から近代へ
日本の文化とこれを育んだ日本のこころや美意識を“体感”できる道筋。それが「歴史街道」です。

時を越えて悠久の歴史に佇む建築物
古い絵筆に彩られた絵画
深い歴史を刻む一刻の美・仏像
意匠と技が織りなす逸品






●園 城 寺
(三井寺) まず勧学院客殿と光浄院客殿に分かれ、非公開の建物や安土桃山時代の狩野派の障壁画、庭園を住職の解説を聞きながら心ゆくまで観賞。部屋一杯に画かれた「花木図」の雄大さと優美な見事さ。新緑の葉群れに白く泡のかたまりの様なモリアオガエルの卵巣の静もりも一体となって、さんざん降る雨に一つの世界を形成している。得がたい時空であった。その後、急ぎ足で境内を見学。
 金堂,鐘楼、閼伽井屋、弁慶の引摺鐘、観音堂など
 国宝光浄院客殿、勧学院客殿の特別拝観

●智 積 院 収蔵庫に保護されている長谷川等伯一門の「桜図」「楓図」を特別観賞。若い僧侶の説明にくつろぎながら観る「桃山金碧画」の華麗さ。等伯、久蔵親子の心の世界にまで思いを馳せながら、絶筆といわれる墨彩の「松林図屏風」を瞼に浮かべる。雨上がりの庭園も瞳にさやしく映った。
  庭園、収蔵庫

●豊国神社
方広寺 豊国神社に着いたころは、うっすら陽がさしていた。
伏見城から移築された桃山建築の遺構とその担い手の一人、豊臣秀吉の遺品を観賞。朝鮮出兵に纏わる耳塚の話は今さらのように嫌悪感をおぼえる。
  唐門(国宝)、宝物館・鐘楼(重文)

●二 条 城 二条城へは庭園から入り、次に二の丸御殿の大広間にある狩野派の襖絵を鑑賞。
  唐門(重文)、二の丸御殿(国宝)、二の丸庭園

●総本山園城寺三井寺

園城寺(三井寺)の沿革
 園城寺(三井寺)は、天台寺門宗の総本山で、古くから日本四箇寺の一つに数えられています。
その歴史をひもとくと、天智・弘文・天武天皇の勅願により、弘文天皇の皇子・大友与多王が田園城邑を投じて建立され、天武天皇より「園城(おんじょう)」の勅願を賜り、「長等山園城寺」と称したのにはじまります。俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」と呼ばれていたものを、後に智証大師が、当寺の厳儀・三部潅頂の法水に用いられたことに由来します。
長い歴史の上で、当寺は再三の兵火にあい焼失しましたが、豊臣氏や徳川氏の尽力で再興され、現在も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝を数多く伝えています。




仁王門(重要文化財)
 宝徳(1452)の建立。浄域への表門として慶長6年(1601)、徳川家康により甲賀の常楽寺より移築、寄進された。




光浄院客殿(国宝)特別拝観
 客殿:当客殿は、慶長6年(1601)の建立で、寝殿造りから書院造りへの流れの過渡期に位置し、現存する建造物の中でも桃山時代の粋を集めた代表作として、国内はもとより、広く海外にも知られている。
 住宅形式としては初期の書院造りともいうべきもので、この客殿はすべて面取りをした角柱を用い、角室とも畳を敷きつめ、間切りには彩色を施した襖を立てるなど書院造り化している一方、妻戸・唐破風の車寄・中門廊など、寝殿造りの要素も残している。
 また、庭園に面した広縁には、二畳敷の上段の間が突き出て、いわゆる付書院・出書院と呼ばれる形式のものである。
 さらに、正面の障壁画及び襖絵は、狩野派の絵師、狩野山楽の筆によるもので、重要文化財に指定されている。


光浄院庭園(名勝・史跡)特別拝観
 庭園は客殿の南面に位置し、いわゆる観賞式池泉である。作庭は客殿建立と同時期とされているが、様式・手法などから考えて、室町末期にまで溯るといわれている。
 山麓に沿って掘られた池は、客殿の広縁の下にまで喰い込み、一説には客殿障壁画と連繋して東西に広がり、特異な形態として珍重されている。池の中央に亀島を設け、対岸の山裾に二個の立石を組んだ枯滝を配する。さらに広縁に沿って三個の夜泊石が直線に配列され、いわゆる蓬莱庭園をあらわしている。



勧学院客殿(国宝)特別拝観
 勧学院とは、学を勧めるところ、つまり園城寺山内における講学の場(学問所)である。この勧学院という名称は南都・北嶺の諸大寺には必ず設けられ、その歴史は、古く平安時代九世紀にまで遡ることができる。
 そうしたなかで、当園城寺勧学院の建立は比較的おくれて、正和元年(1312)に房海僧正によって始められた。
 現在の客殿は、豊臣秀吉による闕所(1595)破却された後、秀頼の命を受けた毛利輝元によって、慶長5年(1600)に再建されたものである。
 桁行七間、梁間七間、一重母屋造、正面軒唐破風付の総柿葺で、国宝に指定されており、光浄院客殿とともに、桃山時代を代表する初期書院造りの遺構として我国建築史上たいへん貴重な位置を占めている。



勧学院・障壁画(重要文化財)特別拝観
 一之間及び二之間の著色画は、正面床貼付裏面の隅書銘により、狩野光信によって画かれたことが知られている。光信は永徳の嫡男で、永徳のあとを継いで豊臣家に仕え、のち徳川家の御用絵師を勤めた。その筆法は父永徳の豪放とは対照的で、静雅で情趣的な美しさを特徴としており、光信研究の基準作品とされている。(四季派花木図襖・光信画・重文)


金 堂(本堂・国宝)
 当寺の総本堂。本尊の弥勒仏は天智天皇が信仰されていた霊像で、秘仏として静かにまつられている。現在の建築は、豊臣秀吉の北政所により慶長4年(1599)に再建された。桃山時代を代表する名建築として知られている。
 




鐘楼・三井晩鐘(重要文化財)
 慶長7年(1602)の再建。梵鐘は、近江八景「三井の晩鐘」で知られる。宇治の平等院、高尾の神護寺と共に日本三銘鐘に数えられ、荘厳な音色は有名で、「日本の残したい音風景百選」にも選ばれている。


伝説・左甚五郎の龍(閼伽井屋)
 天智、天武、持統の三大天皇が産湯に用いられたという泉が湧く。泉を護る覆屋は慶長5年(1600)の建立。正面上部には有名な左甚五郎の龍の彫刻があります。
 むかしこの龍が夜な夜な琵琶湖に出て暴れたために、困った甚五郎が自らの龍の目玉に五寸釘を打ち込んで静めたと伝えられています。今もこの龍は、静かに閼伽井屋の正面で三井寺を見守っています。


●真言宗智山派総本山智積院

智積院の沿革
 真言宗は弘法大師空海上人に依り開かれましたが、降って三百年後平安末期に興教大師師覚鑁上人が現われ、衰微した宗風と真言教学を振興し、刷新されました。その教学は鳥羽上皇の信任を得、高野山に大伝法院、密厳院等を開かれ、学徒の教育に当たられました。晩年故あって、根来塗で有名な紀州(和歌山県)の根来山に移され、時代を追うごとに学徒の数も増加し、戦国時代の最盛期には坊舎二千七百余、住侶六千、所領七十万石といわれています。
 
 その根来も天正13年(1585)住山の僧兵が時の為政者豊臣秀吉に刃向って、一山ことごとく焼き払われ、滅亡してしまいました。その時、根来山塔頭寺院の学頭(今の学校長)をされていた方が、智積院の玄宥僧正でした。玄宥僧正は多くの学僧と共に、難を高野山、京都にさけ根来の再興を願われた。
 
 降って徳川家の時代となり、智積院能化(住職)の学識に日頃帰依されていた家康公は、秀吉が愛児鶴松の菩提を葬う為に建立した祥雲禅寺を、元和元年(1615)5月大阪城の落ちると共に寄進しました。時の能化は之を五百仏頂山根来時智積院と改名し、以来法灯絶ゆることなく今日に至っています。

 しかし、この間、再度の火災に遇い、特に明治15年一山の中心である金堂を焼失以来、宗団、総本山の宿願であった新金堂を昭和48年の宗祖弘法大師のご生誕1200年記念事業として建立を計画、昭和50年6月15日、一宗の風格ある堂宇と昭和の祈りをこめた本尊大日如来の尊像が造顕されました。その豪華さは東山随一を誇りうる壮麗な建物であります。



国宝障壁画(収蔵庫特別拝観) 
 智積院に現存する絵は楓図、桜図、松に秋草図、松に黄蜀葵図、雪松図、松に立葵図等です。しかし、過去に何度か不慮の災渦に遭い、原形の四分の一以下にカットされています。作者は長谷川等伯一派。
 等伯は石川県の七尾生まれ、墨絵を専門に仏画や肖像画を描いていました。上京して狩野派の門をたたきましたが作風が合わず、一派と対立する人となりました。その頃千利休と知己となり、独自の画風を創造していきました。この時期の作品では松林図や枯木猿猴図が有名です。
 祥雲禅寺の障壁画にあっても、水墨画と同様独自のみずみずしい画境を示しました。特に桜図と楓図は、日本の壁画を代表するものとして世に知られています。
 
 桜図は長子久蔵25才の作で、二本の桜を中心に、空間には弾力のあるしなやかな枝、画面全体に胡粉で盛上げた直径6センチもある八重の花を蒔き散らし、地面には野の草花を配しています。他に立体感を作り出す金雲や群青の池、金と白とを基調とし、春爛漫の景を描き出しています。

 作者久蔵は26才の若さで生を閉じていますが、翌年父等伯(55才)が人生無常の感を振りきり、自己の生命力を画面一杯に傾むけて楓図を描きだしました。画面中央に描き出された幹や枝の激しい動き、紅葉や秋草の写実性、空や池の抽象的な表現、また色彩は強烈なコントラストとパステルカラー調の配色を施しています。それらの全てが和合し生々と明るく絢爛豪華に描かれています。
 
 画壇の主流をなす狩野派の人たちが、威圧的か装飾的かの傾向に走ったのに対して、長谷川派は理想を見事に達成しました。彼らの会得した不変の法は、近代の画壇にも大きな影響を与えています。
桜の図

模写の楓図と桜図を背景に記念撮影



名勝庭園
 知積院の庭園は、利休好みの庭と伝えられ中国の盧山を形どって造られています。正面右側、石橋より奥の方は祥雲禅寺時代に造られたもので、桃山時代の特色である自然石のもを用い、刈込を主体とし、また庭の外にある大木をも借り、深山の中にあるような奥行のある野性的な雄大さ勇壮さを感じさせてくれます。滝の落ちている正面を見ますと、石組と植込みとが交互に並び、洗練された美しさが築庭の極限を表現し、江戸時代好みの感じを与えてくれます。
 
 これは知積院第七世運敞僧正(江戸三大名墨家)によって修築されたものです。また池が建物の下に入りこんでいる所は、私たちを寝殿造りの泉殿か釣殿に居るように思わせてくれます。全体的に見ますと、庭自体は小さな面積にもかかわらず、他に類の無い雄大さと重厚味を感じさせ、その反面小さなもの特有のきめの細い所を見せてくれます。数多い名勝庭園の中でも傑作の一つとして世に知られています。
 
 この庭の見頃は植込みの種類が多い為に、四季折々に私たちの目を心を楽しませてくれますが、特に5月下旬から6月下旬にかけてのサツキの頃が庭に一段と艶やかさを添えてくれます。 



百雀図
 雀が百羽描かれた襖絵。若い僧侶から「ほんとうに百羽いるか数えてください。」ということでTさんが挑戦。何度数えても99羽しか描かれていない。不信に感じて僧侶に確認すると、「私は、襖の表側に百羽描かれているとは言ってませんよ」との応え。実は一羽だけ部屋からは見えない襖の裏側に描かれていました。
 
 何故一羽だけ見えない裏側に描かれたのか、それなりの理由はあるようです。答えは実際に現地に出かけて確認してください。

●豊国神社・方広寺

豊国神社(とよくにじんじゃ)
 豊国神社は、京都市東山区の旧方広寺大仏殿遺跡地にあり、京都の人々からは「ほうこくさん」の名で親しまれているが、正式な名称は「とよくにじんじゃ」である。
 天下の英傑豊臣秀吉公は慶長3年(1598)8月18日、京都、伏見城で62年の生涯を終え、遺命により京都東山連峰の秀峰「阿弥陀ヶ峰」に埋葬された。翌慶長4年には山腹の「太閤坦(たいこうだいら)」に日本最初の権現造りで壮麗にして雄大な社殿の造営が成され、後陽成天皇により「豊国大明神」の神号を与えられ神として祀られた。その社殿は「豊国社(とよくにやしろ)と呼ばれ、境内の広さは約30万坪にのぼり、現在神社の宝物館に蔵する重要文化財「豊国祭礼図屏風(狩野内膳筆)」によっても、当時の規模、祭事の盛大さが容易に想像できる。
 しかし、豊臣家滅亡後この華麗な豊国社は徳川氏の手によって完全に破却され、以後250年の長きにわたり庶民の参拝もままならず、むなしく草むらに埋もれて跡形もなくなってしまっていた。しかし、明治維新に至り明治6年、明治天皇の御沙汰により別格官弊社に列せられ、明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿跡地に復興されたのが現在の豊国神社である。
 尚、当初豊国神社は大阪城外に造営の運びであったが、数年間にわたる京都市民挙げての熱願により、本社は京都へ御治定になり大阪へは別社を営まれる事になったという経緯がある。


唐 門(国宝)
 神社正面石鳥居をくぐり参道を進むと、前面に厳然と威容を誇る大唐門は伏見城の遺構で国宝に指定されており、西本願寺・大徳寺の唐門と併せ、国宝の三唐門と呼ばれているうちの一つである。総欅造りで創建当時は彫刻等に金箔が施してあったと伝えられ、その形式や彫刻などいずれも従来の規格にとらわれず自由奔放な手法を示し、豪華な気風を表現した桃山建築の中でも代表的なものに数えられている。
 また、唐門正面に高くかかげてある「豊国大明神」の御神号額は、後陽成(ごようぜい)天皇の御宸筆によるもので、旧豊国社伝来の勅額である。


 唐門正面より本殿を臨む。本殿南側に隣接して祀られている貞照神社(さだてるじんじゃ)は、秀吉公の正夫人、北政所の方を御祭神として大正14年に創建された。


宝物館
 境内には桃山風造りの宝物館があり、豊太閤にゆかり深い宝物が公開されている。
 主なものとしては豊国祭礼図屏風(狩野内膳筆・重文)や与二郎鉄燈篭(辻与二郎作・重文)等約80点が常設展示されており、秀吉公と桃山文化の関わりの大きさを垣間見ることができる。

豊国祭礼図屏風(狩野内膳筆・重文)


豊公嫁を娶る図(鉄斎筆)




方広寺
 京の大仏殿として知られていた同寺は、天正14年豊太閤の建立されたもの。当時の本尊木像廬舎那仏座像(高さ約40m)は創建当時の奈良の大仏殿より高かったといわれている壮大さで、工期約2000日の間に延べ1000万人の労力を要したという。
 その後慶長元年(1596)の大地震を始め再三の災渦にあい、最近迄は天保14年建立の木造上半身像(高さ約14m)があったが、これも昭和48年3月27日の出火により焼失した。
 境内には豊臣・徳川決戦の引き金と伝えられる有名な「国家安康」の鐘(重文・高さ4.2m、重さ82.7t)がある。



近辺の縁故史跡
 耳 塚(史跡):豊国神社正面石段下約30mの所。小高い丘陵の上に高さ約5mの五輪塔がある。文禄・慶長の役の際、豊臣の武将達が首級の代わりに鼻(耳)を持ち帰ったものを、異人とはいえ国難に殉じた兵士の霊を厚くとむらうべしとして、ここに塚を築いて埋葬し、「御身塚(おんみずか)」と呼んだものが訛って「耳塚」といわれるようになったと伝えられる。  
 馬 塚(史跡):豊国神社境内奥、東南の隅に、高さ約2.5m程の五輪塔がある。阿弥陀ヶ峰の旧豊国社が徳川氏により取り壊され、その参道を塞がれた後、秀吉公を慕う人々が代拝所として同峰から移霊したものだが、ときの徳川氏の権勢を恐れて、近辺の地名「馬町」にちなんで「馬塚」と呼ばれたようになったとする説が多い。

●元離宮 二条城




二条城(世界文化遺産登録)
 二条城は、慶長8年(1603)徳川初代将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626)完成したのもです。したがって豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康がたてた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合されて、いわゆる、桃山時代様式の全貌をこの城に見ることができます。
 1867年15代将軍慶喜の大政奉還により、二条城は、朝廷のものとなり、ついで1884年(明治17年)離宮となり、1939年(昭和14年)京都市に下賜され現在に至っています。




見学順路:
  唐門⇒二の丸庭園⇒二の丸御殿⇒自由散策(鳴子門・清流園・緑の園など)


唐 門



二の丸庭園ー特別名勝ー
 二の丸庭園は、古くからの庭造術にしたがい、池の中央に蓬莱島、その左右に鶴亀の島を配した池泉回遊式庭園で、小堀遠州の作と伝えられる。庭は、大広間から眺められるよう造られたのですが、寛永3年後水尾天皇の行幸御殿が池の南側に建てられたときに御殿からも眺められるように改造されたといわれています。色彩にとんだ大小さまざまな石組にあらわれた力強さは、豪壮な城郭建築とよく調和しています。




鳴子門


二の丸御殿へ

二の丸御殿ー国宝ー
 桃山時代武家風書院造りの代表的なもので、御車寄せにつづいて遠侍(とおさむらい)、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6むねが東南から西北にかけ雁行に立ち並んでいます。部屋数33、畳は800畳余り敷かれています。
 各部屋の襖絵は狩野派の手によるもで、部屋の目的に応じて描かれています。また欄間の彫刻、飾金具などは、金飾あざやかに豪華を極めています。
 また、御殿東北には、台所・御清所があり、何れも重要文化財に指定されています。


御殿観覧順路
�柳の間・若松の間:来殿者の受付をした所です。
�遠侍の間:城へ参上した大名の控え室、虎の間といわれ、虎と豹の絵が描かれています。狩野門下の筆。
�式台の間:参上した大名が老中職と挨拶を交した所です。襖絵は狩野探幽が25才のときに描いたといわれています。
�大広間三の間:外様大名の控の間です。部屋の正面上にある欄間の彫刻は、厚さ35cmの桧の1枚板を両方から透し彫りしたものです。

�大広間一の間・二の間:武者隠しの間、遠棚・床の間・附書院を備えています。このような部屋の造りを桃山時代の武家風書院造りといいます。襖絵は、狩野探幽の作になります。
 この部屋で1867年(慶応3年)10月、15代将軍慶喜が諸大名をあつめて大政奉還を発表し、徳川幕府265年の幕を閉じた歴史的な部屋でもあります。


�黒書院:奥御殿で、将軍と親藩及び譜代大名の内輪の対面所です。襖絵は、探幽の弟尚信20歳のときの作です。
�白書院:将軍の居間と寝室。内部の装飾は、表御殿と趣を異にし、絵画も狩野興以の作で、居間にふさわしい山水画になっています。
�大広間四の間:将軍上洛のときに、武器を収めた部屋といわれています。襖絵は、その目的にふさわしく老松に鷹が豪壮に描かれていて、松の枝張りは11メートルあります。狩野探幽の作です。


�老中の間:3部屋あり、一・二の間は雁の間で三の間は柳と鷺の絵画が描かれています。狩野探幽の高弟の筆といわれています。
�勅使の間:将軍が朝廷からの使者を迎える時の対面所です。襖絵は狩野眞設が描いています。



霊鐘堂・弁慶の引摺り鐘(重要文化財)
 奈良時代の作とされるこの梵鐘は、むかし俵藤太秀郷が三上山の百足退治のお礼に竜宮から持ち帰った鐘を三井寺に寄進したと伝えています。その後中世の山門(延暦寺)との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると“イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺へ帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったのです。その時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。(「弁慶の引き摺り鐘」伝説)












↑ PAGE TOP