韓国・日本 のんびり旅・色々

淡路紀行 ・・・・千福寺


淡路人形浄瑠璃と潮風香る島の城下町・洲本を訪ねる


海を隔てて、奈良・京都・大阪に近い淡路島。
ここにははるかな昔から
紡がれてきた魅力的な歴史と文化がある。
神話の冒頭を彩る国生みの伝説と
万葉の人々が謳った歌の数々。
そして、民衆が愛し育てた人形浄瑠璃。
戦国の動乱を経て、幕末には島を揺るがす
大事件も起きた。
洲本を中心に時の足跡を訪ねました。



三熊山山頂に建つ洲本城天守閣(展望台)


歴史の舞台を訪ねる
淡路島の光影
歌と人形浄瑠璃そして文学/維新期の悲劇
大阪湾を見下ろして

国生み伝説(オノコロジマ)
江戸時代の「共通言語」・人形浄瑠璃
観光ポイント
>淡路人形浄瑠璃館>淡路ごちそう館「御食国」
>洲本城跡>淡路文化史料館>足 湯
>洲本八幡神社(金天閣)>厳島神社
>寺町筋「千福寺」

洲本八狸(やだぬき)
直原玉青画伯の南画を訪ねて


●歴史街道倶楽部機関誌「歴史の旅人」より

歴史の舞台を訪ねる
淡路島の光陰
豊かな文化と歴史の島・淡路

●歌と人形浄瑠璃、そして文学
 「わたつみのかさしの玉か淡路島 浪に影さす秋の夜の月」 本居宣長。詩の島、歌の島といわれる淡路島。その風景を愛し、記紀、万葉の昔から感慨を歌にした歌人は多い。江戸時代には俳句も盛んで、現在も街を歩けばいたるとことに句碑を見かける。
 万葉歌人・山辺赤人は、こんな歌を残している。「朝凪に楫の音聞く御食国(みけつくに) 野島の海人の船にあるらし」。「御食国」とは「朝廷の食膳の糧を奉る国」という意味。気候温暖で山海の幸に恵まれた淡路は昔から住みよい所だったのだろう。
 食料が豊かで人々の暮らしにゆとりがあれば、文化が発展する。淡路の文化でよく知られているのが重要無形民俗文化財の淡路人形浄瑠璃である。この人形芝居の発生については、諸説があってはっきりしないが、かつて野外に小屋がけして演じられてきた純粋な農民芸術である。それだけに優雅な文楽に対して、淡路の人形浄瑠璃は野趣豊かで素朴といわれ、地域に根ざした宗教の色彩も濃く、独自の魅力を醸し出している。



傾城阿波鳴門・順礼歌の段

 こうした歴史文化を背景に、近代以後も淡路は多くの文人を輩出し、文学の題材にもなってきた。明治の文豪、岩野泡鳴は洲本で育ち、谷崎潤一郎は大正の末、淡路島を訪れて名作「蓼喰ふ虫」を残し、林芙美子も昭和16年に島を訪れ「淡路紀行」を書いた。司馬遼太郎の「菜の花の沖」は、江戸後期に一代で大商人となり、ロシアを相手に国際交渉をまとめ上げた淡路出身の偉人、高田屋嘉平衛の名を世に知らしめた。そして、船山馨の「お登勢」。この小説は明治初期に洲本で起きた悲しい史実を基にしている。 
                              
                          


三熊山・洲本城跡から眼下に洲本港を望む

●維新期の悲劇
 明治3年5月13日の早朝、洲本在住の徳島藩青年武士たちが、家老稲田邦植の別邸や学問所、家臣の屋敷を襲い火を放った。無抵抗の稲田側に17人もの死者と多くの重傷者が出て、屋敷の焼失も多数におよんだ。稲田騒動とも呼ばれる庚午事変である。
 ことの起こりは、明治維新にともなう禄制改革であった。江戸期の淡路は、阿波・徳島藩の蜂須賀家の支配下にあり、洲本には家老の稲田氏が派遣されていた。しかし、禄制改革で陪臣のため卒族にされることになった稲田家臣は、士族編入を朝廷筋に嘆願するとともに分藩独立運動を起こす。この動きが本藩家臣の激しい怒りをかい、一部過激派の決起となったのでる。
 事件に対する中央政府からの処分は厳しく、徳島藩側首謀者10人が切腹、八丈島への終身流刑は27人、その他禁固、謹慎など多数に及んだ。一方の稲田側は、稲田邦植以下、家臣全員に北海道への移住開拓が申し渡され、北辺の地で苦闘することになる。移住の途中、荒海に遭難した人も多かったという。
 小説「お登勢」は、この悲劇を描いて余すところがない。長年、徳島藩下にあった淡路島が、明治に兵庫県に編入されたのもこの事件が影を落としている。



城下町の面影を残す寺町筋の専称寺境内には、庚午事変で処刑された徳島藩士の供養塔が建つ。近くの江國寺には稲田側犠牲者の招魂碑もある



●大阪湾を見下ろして
 庚午事変の重要な舞台になった洲本城は、三熊山に築かれた山城と、その麓に居館として建てられた平城の二つの顔があった。そのうち現存する山城へ登れば、戦国時代の城郭の魅力を存分に味わうことができる。
 この城は室町末期に安宅治興が築城したのが始まりとされる。信長の命を受けた秀吉が淡路国の攻略に乗り出すと、治興の後を継いだ冬康はあっけなく秀吉の軍門に降り、洲本城を開け渡す。秀吉はここに腹心の脇坂安治を置き、四国攻めの中継地にした。今日残る石垣はこの脇坂時代のもの。洲本城はその後、藤堂高虎、池田照政の短い支配の後、徳島藩の蜂須賀氏の支城となった。
  

 昭和3年に大礼を記念して建てられた洲本城天守閣。コンクリート造りの展望台といった建築だが、模擬天守としては最も古く、その後の各地の復興天守の先がけになった。 本丸には民話で知られる柴右衛門狸をまつる社もある。

 



三熊山頂の洲本城跡より大阪湾を眺望
 
 深い樹林につつまれた標高約100メートルの山上には、総石垣造りの曲輪が良い状態で残っている。特に本丸南側の虎口と大石段、高石垣が見事。天守台の上にはちょこんと小さな三層天守が乗っている。昭和3年築の模擬天守だが、今ではすっかり洲本の風景に溶け込んでいる。
 そこからの眺望が見事だった。眼下には城下町が広がり、左手に淡路富士とも呼ばれる先山、右手に大浜の松と砂浜。さらに大阪湾に目を転じると、きらきらと陽の光を反射して輝く海面に漁船がのどかに浮かび、はるか遠くには生駒と六甲の山並みも見える。
 こうして広々と世界を見渡せば、まるで世界の中心にいるようだ。国生みの神話がこの地に始まるのも理由がないことではない気がする。そんな太古の昔から、この島に築き上げられてきた人々の歴史にもう一度、想いをはせた。




●淡路人形浄瑠璃館



重要無形民俗文化財
淡路人形芝居の由来
 淡路人形芝居は、約500年前、西宮から「傀ぐつ師」の元祖と言われる百太夫が淡路島を訪れ、地元の人に伝えたのが始まりです。18世紀のはじめには、44座の座元が覇を競い、淡路島のみならず、日本全国を巡業して発展してきました。大阪の文楽、徳島の阿波人形なども淡路から伝わったものです。全国各地に約80座の淡路人形系の人形が今も残っています。
 世界の歴史上、人形はよく宗教的な行事に結びついて使われましたが、淡路人形も例外ではなく、恵比寿天をたたえ、漁の安全と恵みを祈るものとして行われてきましたが、百太夫の死後、家,土地,船を守り、神を讃える神聖な季節の行事として定着して行きました。
 淡路人形は、芸術性の高い「かしら」と胴と衣装からなっており、一体の人形を三人の人形遣いが黒子を着て遣います。一人が足を、一人は左手を一人は右手と「かしら」を受け持ちますが、三人の気持ちがうまく合って初めて人形に命がふきこまれ、生き生きした表現ができるようになりました。
 そして、情感溢れる義太夫による浄瑠璃の語りと重々しくひびく三味線による伴奏とが相まって、野趣にとんだ人間以上に喜怒哀楽ある舞台が生まれてきます。人形と浄瑠璃と三味線の、絶妙のハーモニーは三位一体という言葉に凝縮することができます。
 人形遣い、太夫、三味線とも生涯が修行といわれる程、長い修業を必要とし、その間の修業や経済的な苦しさに堪えられず、逐次衰微の道をたどりました。又、第二次世界大戦中巡業を禁じられたことや、戦後の混乱により淡路人形も絶滅の危機にさらされました。
 しかし、日本人の「わび」「さび」を伝える伝統芸能の将来を憂慮する多くの人々の尽力により1969年、財団法人淡路人形協会が設立され、後継者の育成と、人形座の存続管理が図られております。1976年には、国の「重要無形民俗文化財」に指定され、今日に至っています。
 


 



淡路人形浄瑠璃館では5つの演目が上演されています。


傾城阿波鳴門
巡礼歌の談 東海道中膝栗毛
赤坂並木の段 壷坂霊験記
山の段 日高川入相花王
渡し場の段 鬼一法眼三略の巻
五条橋の段

開演時間:定時公演 9:10、10:10、11:10、12:10、13:10,14:10、15:10、16:10より
        *開演20分前より人形教室が始められます。   
交通案内:<車>淡路島南ICより5分   �0799−52−0260



一度は見たい・・・また見たくなる。
淡路人形浄瑠璃を鑑賞しました。

 開演前の人形遣い師のユニークな人形教室の後、会員の中から有志3名が人形遣いに挑戦。泣くしぐさや手招きなどいろいろな人形の動きを体験されていましたが、何となくギクシャクして・・・、会場は笑いの渦が巻き起こっていました。
 



 公演がはじまると、若手の人形遣い師といえどもさすがプロ、三味線と浄瑠璃と人形の動きが一体となり見学者を舞台に引き付けていました。
 私たちは「壷坂霊験記」を鑑賞しましたが、終盤の山場になると目頭を熱くしている人も見受けられました。(映画やビデオもいいが、たまに人形芝居を見るのもいいもんですね!)




・淡路ごちそう館「御食国」(みけつくに)



 『御食国』(みけつくに)とは淡路島が古来より朝廷に対して、多くの食材を献上していたことにより、「朝廷の食膳の糧を奉る国」という意味です。
 明治・大正期の産業革命のシンボルである赤レンガが時代を超えて、おしゃれなレストランとして蘇りました。


●洲本城跡(三熊山の史跡)



洲本城の見所
 ここ三熊山から南の由良地域にかけては、大和、畿内に通じる南の入口、紀淡海峡を扼する地として、古代から中世・戦国時代にかけて重要な戦略基地であった。そして、ここ三熊山に最初に城が築かれたのは室町時代の後半であるが、今見るような広大な石積みによる城が築かれたのは安土・桃山時代になってからである。
 標高133mの三熊山の山頂に築かれた洲本城は、東西800m南北600mに及ぶ広大堅固な縄張りをもち、西日本最大の要塞といわれ、戦国時代の城郭の様式をよくあらわしているうえに、その保存も良く、平成11年1月国の史跡として文化庁より指定されている。
 山頂の天守台にある展望台として作られた模擬天守は昭和3年に建てられた日本最古のものである。城主の居所であった本丸から東の丸、西の丸、南の丸と広大な縄張りの洲本城を築いたのは、天正13年(1585)から24年間にわたって在城した秀吉摩下の勇将脇坂安治である。城石垣の積み方は、穴太積(あのうづみ)という安土桃山時代の技法によっている。
三熊山


三熊山・洲本城址の散策
 地元のボランティアガイドさんの案内で散策。洲本城天守閣は展望台として作られた模擬天守であるが、石垣や石段は、保存状態がよく当時そのままの姿を残している。石垣の間から張り出している樹木の根張りから時の流れを覗うことができる。
 案内板が散策ルート上にないため、普段は見ることが難しい雑木林の中にひっそりと佇んでいる「登り石垣」など、地元語り部(石垣の調査を担当された先生)のご配慮により多くの石垣をくまなく見学できました。
 
散策コース:

大手口〜馬屋・見晴し台〜本丸大石段〜本丸南の虎口〜本丸〜天守台南西の角石〜本丸台北西部の石垣〜搦手〜*登り石〜*東の丸東面の石垣〜日月の池〜山道を徒歩で下山




大手口の石垣
馬屋・見晴し台
本丸大石段
 洲本城表門の大手口は南に向き、紀淡海峡、大阪湾の海上をおさえ、また海峡を通って諸国へ打って出るような構えである。洲本城歴代の城主は水軍の将であった。  馬屋・見晴台(三熊山展望台)から紀淡海峡を遠望。手前にマリーナが見える。  広い石段は洲本城の威風を示す。この石段を上がると南の虎口であり、本丸へ通じる。



本丸南の虎口
本丸
本丸台南西の角石
 本丸南の虎口は、本丸へ直進をはばんで屈曲した桝形を構成し、門の柱石が二個対応している。本丸守備の堅固さを思わせる。  本丸の南側と西側は、低い馬踏(まふ)み石垣。東側は高い石垣の頂上部。北側は大天守台と小天守台が築かれ、その間の石垣が接続して本丸が形成される。西北と南に虎口が設けられ、本丸を守る。  天守台石垣の南西の角は、大きな石材を交互に組み、算木積み(さんぎづみ)の完成に近い。その後近世城郭の高い石垣は算木積みが完成してからである。



本丸台北西部の石垣
登り石垣
東の丸東面の石垣
 搦手から本丸へ通ずる所で石垣は高い。本丸台を形づくる石垣には、シノギ角(石垣の曲がり角が鈍角になる)、或いは少し出っ張った部分もある。そして天守台の石垣を見通す構成が興味深い。
 下の城から山上の城へ結ぶ階段状に築かれた二十数段の登り石垣は、洲本城の見所の一つであるが、急峻な山腹で石垣の崩れもあるので近づきにくい。  東の丸東面の高い石垣。洲本城は山城の要塞的な面と、水軍の基地としての機能をもつ、東面するこの高く長く続く石垣は、海に構えたものである。



 山道を下山途中に神水があり、つり看板にはこう書いてあった。
 「一杯飲むと一年長生きします。二杯飲むと二年長生きします。三杯以上飲むとお腹をこわします。」  →
山道入口の石標

石垣から張り出す樹木。時の流れを感じる。

●淡路文化史料館


 淡路の歴史と文化を一堂に集め、考古・歴史資料他、重要無形文化財の人形浄瑠璃、�平焼、美術工芸品を展示。南画界最高峰・直原玉青の美術館も併設している。
 江戸時代の初めに築かれた洲本城跡「平城」にあり、背後に三熊山、前には城の石垣と堀のある閑静な雰囲気の中に立っています。





入口で柴右衛門狸が出迎えてくれますよ。




大展示室:民俗芸能とまつり

淡路人形浄瑠璃の復元舞台
舟だんじりと南画「鳴門渦潮」
     
歴史展示室:原始古代から近代まで
 邪馬台国の女王卑弥呼と関係の深い鏡、国内最古の鉄造宝塔、羽柴秀吉や石田三成の書状、徳島藩主や洲本城ゆかりの品々などが見所です。

民俗展示室:民俗・美術工芸・文学
 
直原玉青記念美術館:直原玉青画伯から寄贈の作品を展示(鳴門渦潮、少年の頃、明兆など)



●洲本八幡神社(金天閣)



 三熊山北麓の洲本八幡神社に藩主の迎賓館として建てられたものを、明治維新後、城外に移築。大正時代に洲本八幡神社内に移設されました。県指定の重要有形文化財で、内部の装飾金具や欄間の彫刻には、江戸工芸技術の粋がつくされています。建物の各所に見られる卍の印は蜂須賀家の家紋です。



特別公開:神主より金天閣にまつわる歴史ロマンを語っていただきました。



   武者隠し部屋          竜の欄間


●厳島神社



 海上安全、商売繁盛、縁結びの神様として広く信仰を集めている神社。「弁天さん」として親しまれ毎年11月21日から3日間、島内最大のまつり「弁天まつり」が行われます。境内には阿波藩家老稲田家守護神稲基神社や庚午事変を題材にした小説「お登勢」の句碑等があります。

●寺町筋・玉青山千福寺



寺町筋
 寛永年間、三熊山の麓に洲本城を築いた際、城や城下町防衛のために外町の千草川沿いに寺院が集められ、城の出丸的な役割を担いました。
 寺町筋は、今なお城下町の面影を唯一残す町筋で、庚午事変本藩班派の慰霊碑、城代家老稲田家の菩提所・専称寺、稲田派の犠牲者の招魂碑がある江国寺などがあります。
 
          
              寺町八ヶ寺 ≫
  


玉青山・千福寺
 千福寺は、真言宗の寺。寛永年間に由良より洲本に移りました。池田輝政、三男忠輝信仰の愛染明王が本尊です。 

 
寺内の襖絵は、昭和52年以来すべて玉青画伯の手により描かれています。特に、本堂の弘法大師修行図絵13面は見事なものと著名です。


千福寺の門は、薬師堂の門で除病門といわれ、これをくぐる人は速疾に病除かると云う。



名誉住職より講話をいただきました。
正面玄関の襖絵



住職より弘法大師一代記の説明がありました。
弘法大師修行十三面の額


 本堂・弘法大師修行十三面の額の説明の後、各部屋の襖絵を見学しました。すべて玉青画伯の作品であり、見事の一語につきる。



最後にあめ茶をご馳走になりました。すごく美味しかった。




洲本最古の佛・薬師如来・子安地蔵尊
 昔より薬師として安産授乳の佛様として有名です。縁日には、八丁目夜店もにぎわい門前市をなす。佛様は薬師瑠璃光如来、室町下期〜鎌倉初期作で、この薬師堂を基点として寺町ができ現在に至る。千福寺の門は、この薬師堂の門で除病門といわれ、これをくぐる人は速疾に病除かると云う。




●国生み伝説(オノコロジマ)


●国生みの起点
 「・・・・天(あめ)の浮橋に立たして、その沼矛(ぬぼこ)を指し下ろしてかきたまえば、塩こをろこをろにかき鳴して引き上げたまふ時、その矛の末(さき)より垂り落つる塩、重なり積もりて島と成りき。これ淤能碁呂島(おのころじま)なり」(『古事記』)
 世界中の多くの部族が創世神話を何らかの形で持ち伝えている。日本ではイザナギ、イザナミの神が天上の高天原から天の浮き橋に降り立ち、矛で海の水をかき回して潮のしずくが自然に固まって出来上がった島に天下った。そのオノコロジマで、八尋殿を建て、イザナギとイザナミは柱の周りをめぐって、大八洲(おおやしま=日本の国土)を誕生させる。その島々のはじめが淡路島である。
 イザナギ・イザナミの夫婦神による日本国土創生の物語「国生み神話」は淡路島から始まり、古代の淡路の海人族の伝承であるといわれている。    
                             
 

 現在、淡路島の三原郡には自凝島(おのころじま)神社が祀られている。かつて松を御神体として社殿のなかった神社は、三原川流域の田園の中のこんもりと緑で覆われた丘に鎮座する。周辺に奈良時代の国分寺や国衙(こくが)が建てられ、古代淡路の中心だった。三原郡には弥生遺跡が集中し、淡路の銅鐸13個の内、9個が三原郡出土であり、1966年には、三原川の河口、古津路から銅剣14本が一度に発見された。その刀身には菱形紋様が彫られ、武器というより祭りに用いられたのだろう。              

                           


●塩生産とのかかわり
 5〜6世紀、古代国家の服属儀礼として天皇に淡路の塩を謙譲した。その後、大嘗祭に淡路の語り部が参加している。これから、日本神話の国生みは、淡路の島生みを取り入れ、古事記・日本書紀の国土生成物語に吸収された。
 「塩こをろこをろ」と唱えるのは「島よ成れ。塩よ成れ」という意味をこめて、当時、淡路島で行われていた塩生産に携わった海人の呪文ではなかったか。
 淡路島全体で19もの製塩遺跡が見つかっている。また、西淡町沖ノ島や南淡町沼島の古墳から淡路独特の緩やかなそりを持つ磨製の棒状石製品が出土している。海人が使ったと考えられる用途不明のこの棒をあわびを捕る道具とみる説もあるが、製塩の際の攪拌棒(かくはんぼう)と見たい。
 塩を作るにあたって神事儀礼を行い、その際に攪拌する石棒に代わって剣を用いたとすれば・・・・・・古津路から出土した菱形紋様に鋳出された銅剣は、海の潮をかき回して、その滴を垂らした所作を髣髴(ほうふつ)とさせる。
 淡路島の海浜に立つと潮騒の音に混じって「こをろこをろ」という音楽的なリズムを響かせ、原初の国生みと神生みの天語りが海原のかなたから聞こえてくる。

●江戸時代の「共通言語」・人形浄瑠璃


 列島が「三百諸侯」といわれる大名中心の領国にわかれていた江戸時代。人々の言葉や習俗は地方ごとに大きく異なっていた。
 大名の参勤交代や庶民のお伊勢参りが見知らぬ人を出会わせ、結びつける機会となったが、同様に東西交流の役割を果たしたのが、歌舞伎と並んで庶民の最大の娯楽だった人形浄瑠璃である。
 
 ≪この時代、土地のなまの言葉は他の土地では意味が通じないのである。このため上方の商人は遠国の商人と話すとき、できるだけ浄瑠璃の敬語に近づけて物を言う≫
 司馬遼太郎さんの『菜の花の沖』には、淡路島出身の船頭、高田屋嘉兵衛が初めて出向いた秋田で、地元の船大工と会話を交わす場面がこう書かれている。
     * * * * * * *
 「ラジオとかテレビがなかった時代。庶民の数少ない娯楽といえる人形浄瑠璃でした。親しみやすい人形を使い、しかも義理や人情、親子や夫婦の情愛という普遍的なテーマを扱うことで人々の心をとらえたのです」
 『人形浄瑠璃の歴史』の著書もある廣瀬久也・神戸芸術工学科教授を言う。
 操り人形と義太夫の語り、三味線が一体となった総合芸能が人形浄瑠璃である。傀儡(くぐつ)と呼ばれる中世の神事芸能にルーツをもち、淡路島を本拠として広まり、元禄時代の大坂で竹本義太夫と近松門左衛門によって大成された。
 人形浄瑠璃の人気は男女の心中事件などを題材にすることによって頂点を極めたが、儒教道徳を重んじる幕府によって、人形芝居の興行禁止などの取り締まりも招いた。農村に人形浄瑠璃が浸透した背景のひとつには、大坂や江戸で職を失った人形遣いや太夫、三味線弾きの流浪もあった。

 淡路島から全国に広がった人形浄瑠璃。人生の悲喜劇を映し出し、日本人に共通する心情をかたちづくった。
     
 こうした人々によってもたらされた人形浄瑠璃の遺産は、いまも全国に残っている。佐渡、長野、徳島、熊本などである。中でも徳島は藩主(蜂須賀家)が積極的に関係者を保護したことから、本家の淡路と並んで人気が高い。
 徳島市八多町、五王神社境内にある「犬飼の舞台」は明治6年(1873)の建立で、人形浄瑠璃専用舞台として国の重要有形民俗文化財になっているほどだ。
 「徳島や淡路の人形浄瑠璃は野外公演が中心のため、大阪中心の文楽と比べて人形の頭が大きく、公演の最後が縁起かつぎの“戎舞”で締めくくられるなど、宗教色が残っている特徴があります」と廣瀬さん。
 
 耳に快い七、五調の語り口、日本人の心情に訴えるストーリー・・・・・。村々の祭礼などに演じられた人形浄瑠璃は、こうして人々の心を引き付け、全国に通じる“共通言語”となっていった。

●洲本八狸(やだぬき)


●柴右衛門狸の祠
 淡路島の洲本・三熊山に芝居好きの狸「柴右衛門」がおりました。
 昔、むかし、大阪・道頓堀の中座の木戸銭箱に、毎日木の葉が1枚入っていました。不審におもって調べてみると、芝居好きの狸がお客にばけて芝居を見に来ていたのです。狸は結局、犬にかみ殺され、あえない最後を遂げました。その後、中座の客足が遠のき、これはきっと狸のたたりにちがいないと、狸の出身地であった三熊山に祠を建て、その冥福を祈ったとか。この祠は洲本城内の本丸の一画にたっています。
 


 


でも、柴右衛門には、他にもたくさんの仲間がいたのです。



一、柴右衛門(しばえもん)
 三熊山に住む芝居好きの狸・柴右衛門。毎日のように人間に化け、大阪・道頓堀まで大好きな芝居見物に出かけていました。お金はもちろん「木の葉」を化かして・・・・。日本三名狸の一匹で、芝居の神様でもあります。
(今は、八幡神社の祠に暮らしている。史料館でも。)


二、柴助(しばすけ)
 柴右衛門の長男。子供の頃はいたずら好きでしたが、全国に修行の旅に出て立派に柴右衛門の後を継ぎました。病気兵平癒の神様です。
(足湯で休憩して行ってくださいね)


三、お増(おます)
 柴右衛門の女房で、夜な夜な木の葉のお金で城下へ買い物に。でも化かされたお店はかえって繁盛したそうです。商売繁盛の神様です。
(コモード商店街のレインボープラザで暮らしているのよ。)



四、武左衛門(ぶざえもん)
 毎日、夜更けに見廻りに出て戸締りの悪い家を探しては、家の外から鍵をかけて懲らしめたと伝えられます。防犯の神様です。
(住いは、厳島神社にあるのじゃ。)
五、桝右衛門(ますえもん)
 お酒が大好きな狸。夜の城下の安全を守り、酒に酔って絡む者や乱暴者を、大入道に化けて懲らしめました。水商売の神様です。
(果報は寝て待て、堀端筋で寝転がっているからね)


六、川太郎(かわたろう)
 昔の洲本の関所を守り、川を綺麗にすることを使命に思い、毎夜、川や土手の点検や清掃を行いました。交通安全の神様です。
(僕は八丁目の交番で見張りをしているよ)
七、宅左衛門(たくざえもん)
 洲本の狸の長老として、狸たちがその日暮しなのを嘆き、困った時にはお互いお金を融通しあう頼母子講を始めました。金融の神様です。
(みつあい館にすんどる。困ったときの神頼み。おまかせあれ。) 八、お松(おまつ)
 柴右衛門の娘で、非常な美人として有名で若い狸にとても人気がありました。美人の神様、女性の守り神として親しまれています。
(今は新都心にいてるの。会いにきてね)

●直原玉青画伯の南画を訪ねて



●南画について
 南画は中国唐代の王朝に仕えた詩人王維が机辺の水と墨とで詩意を画に表したのがはじまりです。後に、職業画家が絵具による写実的な画風を北画とし、水墨を主体とした精神派の画を南画と称したのでした。
 現今の中国において、この伝統を国画として絵画芸術の中心にしています。日本に水墨画(*禅の美)が伝来したのは、室町時代の禅僧達が中国に留学し禅画として持ち帰ってきましたが、南画「文人画」が到来したのは、徳川上期、長崎の黄檗寺院に住持していた、福州の僧逸然が隠元禅師を日本に迎え、併せて明代文化の最たる南画をはじめて日本に定着させたのです。
 東洋画の粋としての南画は、自己の内容を高め、気品と個性ある作品を求めるものであり、その後、池大雅や与謝野蕪村、浦上玉堂,田能村竹田、富岡鐵斎などの名家を生みましたが一時、中国の模範に落ちた時期もありました。
 現在は南画本来の精神に立ちかえり、水墨を骨子として色彩を用い、時代性も個性もある現代南画の創造に心技の精進を続けるとともに、物質文化の弊害より心の時代へと移りつつある世界の動向に応え、美と平和に寄与していきたいと思っています。(直原玉青) じきはらぎょくせい
直原玉青画伯の略歴        
明治37年
明治39年
昭和 2年
昭和 5年 岡山県で生まれる。 
淡路・洲本に移る。
24歳、大阪美術学校に入る。
27歳、「遊魚」南画院展に入選。
「西逆風襲」が帝国美術展に初入選、以降日展に16回入選。
昭和35年
昭和52年

昭和55年
57歳、(社)日本南画院創立に参加
74歳、勲四等旭日賞を受ける。
洲本市千福寺襖絵を揮毫。
77歳、洲本40周年を記念して、書画一切を洲本市に寄贈する。淡路島西淡町の国清庵廃寺を再建、晋山式挙行。
昭和57年
79歳、洲本名誉市民となる。
淡路文化史料館開館、三階に「玉青コーナー」ができる
昭和63年
平成 3年 85歳、日本南画院理事長に就任。
88歳、西淡町立滝川記念美術館玉青館完成。
平成 6年 91歳、京都黄檗本山より中興開山の称号を受ける。
以降、千福寺、国清禅寺他、淡路全島に作品を揮毫。


●直原玉青画伯の南画を訪ねて




●直原玉青が描く南画の粋を訪ねるコース





� 玉青山・千福寺     千福寺 ≫
洲本港、バス停洲本駅から徒歩約10分
�:0799−22−3309
開館時間:午前7時〜午後5時
休館日:7月20日〜8月20日
拝観無料(ただし、謝意の心は必要ですよ!)

玉青画伯の大作障壁画

飛天(本堂欄間額)


神泉祈雨(弘法大師一代記十三献額の内)





� 玉青館・西淡町立滝川記念美術館
西淡三原インターチェンジより車で約5分
本四バス停「志知」下車タクシー約5分
�0799−36−2314
開館時間:
午前9時〜午後5時(入館は4時30分まで)
入館料:
大人300円、大高生200円,小中生00円

 国清禅寺に隣接する玉青館は、池に面し、緑深い三原平野を一望できる風光明媚な池に地元の医師・滝川弘氏の協力のもとに平成3年に南画界の第一人者、直原玉青画伯の作品をコレクションの核とする美術館としてオープンしました。


� 淡路文化史料館・「玉青コーナー」
直原玉青記念美術館     史料館 ≫
洲本港高速バスセンターから徒歩10分
�:0799−24−3331
営業時間:午前9時〜午後5時(入館4時30分まで)
入場料:大人400円、大高生250円、中小生100円
休館日:月曜日・祝祭日の翌日・年末年始



少年の頃
大浜海岸を手をひかれて歩く直原玉青画伯の幼い頃の思い出を描いたものです。
明兆
明兆は、室町時代の画僧で洲本で生まれ、日本水墨画の祖と称せられています。この大作は、直原画伯が描いた淡路三偉人像の一つです。



鳴門海峡(渦潮)
この壮大な渦潮の絵は昭和57年、日中合同美術展に出品された直原画伯の超大作です。



� 国清禅寺
西淡三原インターチェンジより車で約5分
本四バス停「志知」下車タクシー約5分
�:0799−36−5223
開館時間:午前9時30分〜午後4時(不定休)
拝観志納料:大人400円、中学生以下無料

 江戸時代中期、勝算和尚が創建した淡路唯一の禅寺。南画と古美術、玉青画伯の襖絵(江湖風月集・開山奥座敷)で心静かに禅の世界に浸れます。
 南画を日本にもたらした黄檗宗の僧籍をもつ国清禅寺26代・直原玉青は、郷里淡路島に黄檗唯一の禅寺が倒壊寸前にあるのを見、この復興は私の責務と痛感。昭和54年より本堂の修復より始め現在に至る。





玉青館









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