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琵琶湖一周・湖国の歴史を訪ねる


 琵琶湖一周・湖国の歴史を訪ねる
「街道をゆく」の中で司馬遼太郎が歩いた琵琶湖    

【観光コース】
1、琵琶湖博物館
2、安土・信長の館
3、安土城址
4、須賀谷温泉
5、観音の里めぐり
6、史蹟 賤ヶ岳
7、奥琵琶湖パークウェイ
8、白髭神社

晩秋の琵琶湖一周・湖国の歴史を訪ねる     



近つ淡湖−−−琵琶湖。
悠久の湖との出会いから湖国に刻まれた歴史を訪ねる旅。
琵琶湖の生い立ちが学べる滋賀県立琵琶湖博物館、
天下布武の象徴ともいえる信長の館と安土城址、
渡岸寺の国宝十一面観音立像をはじめ湖北に点在する観音の里、秀吉と勝家が死闘を繰り広げた賤ヶ岳などを訪ねました。 


「街道をゆく」の中で
司馬遼太郎が歩いた琵琶湖
         
 「近江」というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。(中略) 「近江からはじめましょう」というと、編集部のH氏が微笑した。          
                                           (第1巻 楽浪の志賀)

 「街道をゆく」は1971年(昭和46年)1月から上記の書き出しで「湖国のみち」から始まる。司馬遼太郎48才の時である。週間朝日の連載で、1996年(平成8年)2月23日号「濃尾参州記」まで1146回、25年の歳月である。 (単行本で43巻)



【琵琶湖】近つ淡海−−近江
 大和からみて琵琶湖は近く淡海、「近つの淡海」という言葉をちぢめて「近江」の国といわれるようになった。これに対して静岡県の西半分は「遠江(とおとうみ)」の国。大和人にとって浜名湖は遠くの淡海−−「遠つ淡海」のチヂメ言葉が遠江。もっとも遠江は、いまの静岡県ではなく、琵琶湖の北の余呉湖や賤ヶ岳あたりを指した時代もあるらしい。       (第1巻・楽浪の志賀より略述)


1,滋賀県立琵琶湖博物館

 琵琶湖の歴史をたどると、今から400万年前、現在地より50km南の三重県上野盆地に出現。その後、消滅、出現、移動をくりかえして現在地には約40万年前に出現。そして人間が琵琶湖のまわりに住みついたのが約1万年前の縄文時代といわれている。 それからずっと琵琶湖の自然と共存し、その恵みを受けながら今日まで独自の文化を発展させてきた。
 琵琶湖博物館は、そんな湖と人間のよりよい共存関係を目指すための入り口です。
 展示室は「琵琶湖のおいたち」「人と琵琶湖の歴史」「湖の環境と人々のくらし」「淡水の生き物たち」のほか、屋外展示や各種の体験学習できる施設があります。


ここから一歩踏み出して、湖国の歴史を訪ねることに・・・。

湖国に刻まれた歴史について学芸員さんより講演していただきました。
「湖との出会いから自然と人が見えてくる。歴史とのふれあいから新しい未来が開けてくる。・・・」






2,文芸の郷 安土城天主・信長の館 

      

蘇った幻の名城
  平成4年(1992)、スペインのセビリア万国博覧会の日本館のメイン展示として、安土城の天主の最上部五階(六重目)、六階(七重目)が内部の障壁画とともに原寸大に忠実に復元して展示。万博終了後、安土城がその天主を譲り受け、「信長の館」として公開された。
 天主は、昭和44年、内藤昌・愛知産業大学学長が加賀藩池上家の資料の中から城の詳細な設計図「天守指図」を発見し、発掘調査資料、文献資料との照合により復元された。
 

 安土城は、日本で最初に天守閣を備えた城であっただけでなく、世界で初めての木造高層建築(46m)。
六階(七重目)
 天主五階は約30坪の宇宙空間を表す八角形で仏教の世界観による理想郷を象徴。金箔の壁と釈迦説法図の襖絵に囲まれた朱塗りの床に2枚の畳が敷かれている。
五階(六重目)黄金の間

“文芸の郷”には、国際交流都市であるポルトガル・スペイン・イタリアなどヨーロッパの文化をモチーフとした建物(文芸セミナリヨ等)や広場があります。

信長の館
文芸の郷
背景の山頂には観音寺城跡がある
文芸セミナリヨのパイプオルガン






3,安土城址


 はじめて安土城址の山にのぼったのは中学生のころで、(中略)山が、ひろがってゆく水のなかにあった。わずか標高199mの山ながら、登るのに苦しかった。(中略)古い地図で見ると、山というより、岬なのである。琵琶湖の内湖である伊庭湖(大中之湖)にむかってつき出ている。この水量のうつくしさが、私の安土城についての基礎的なイメージになった。織田信長という人は、湖と野の境いの山上にいたのである。
                (第24巻 近江散歩・安土城址と琵琶湖より)



天主閣址より伊庭湖を眺望
 信長の安土城についてすこしのべておきたい。
高さ199mほどの安土山が、ことごとく石塁化したといえるほどに、石が多用されているのである。最高所のせまいところに天守台と本丸、二の丸、三の丸が巧妙に組みあわせられて、構築されている。石塁による構造化だった。(中略) 本丸の下という重要な場所に徳川家康の屋敷跡がある。織田家における家康の位置の重さがわかる。そのような家康屋敷より下に、信長にとって五人の総司令官の一人である羽柴秀吉の屋敷跡がある。         
            (第32巻 紀ノ川流域・鶴の渓より)


「近江を制するものは天下を制す」
 京へ続く近江の道は天下へ続く道で、信長は「天下布武」への道を奔走し、その集大成ともいうべき事業が安土城の築城であった。
 外観五層、地上六階地下一階の七重、総高46mの黄金の天主。青、赤の瓦、総金箔の最上階、絢爛たる色彩と斬新な造形は、見るものを圧倒し、従来の城の通念を一変した安土城は天下布武のシンボルであった。いま、安土山にはその威容はなく、石塁のみが往時の姿を留めている。
幻の名城安土城と信長





天主閣址
 

石仏がいたるとこで石段に使われている・・・


大手道
 大手口と城内を結ぶルート、大手口から直線的に180m進み主郭部へとつながっており、道幅は約8mと、他の城内道より広い。


�見寺跡と百々橋口道
 城下町と城内を結ぶ百々橋口道は、唯一記録上に現れる道である。
 �見寺は信長が安土城内に建立した寺で、幕末に主要な建物が焼失して現在の場所に移されましたが、それまでは百々橋口道上で信長の菩提を守り続けてきました。
 調査では、創建当時のもとして本堂・拝殿・鎮守社・二王門・三重塔・表門・裏門の建物跡が発見されている。

三重塔
二王門・百々橋口道



4,“戦国のいで湯”須賀谷温泉


 
 「那賀谷の湯」は歴史が古く、戦国の世には小谷城の武将達が戦いの疲れをいやすために下山し湯治に通ったと伝えられている。


温泉「すがたに」の借景の尾根伝いに小谷城跡がある。




湖北は戦国の悲しい舞台。

悲運の戦国武将−−−浅井長政
 1573年、朝倉との旧恩を大切にして信長に果敢な戦いを挑み、二十九歳の若さで自刀して果てた浅井長政。そして夫人のお市の方と三人の娘(茶々、お初、小督)の数奇な運命をたどった。

浅井長政
お市の方



【姉川古戦場】
 姉川は、川の名である。琵琶湖に流れ込む最大の河川として湖東平野の北部を流れている。 姉川は、川の名としてよりも、古戦場として名をとどめた。姉川合戦というのは、元亀(1570)六月の暑い日におこなわれた。          (第24巻 近江散歩・浅井長政の記)
 
 長さ37キロもある。ただしそのうち半分以上は伊吹山塊のなかに蛇行している。南流して伊吹町に落ち、はじめて西流する。しばらくは山麓を洗っていそがしく流れるものの、やがて平野に出る辺りで、のびやかな河相になる。姉川の古戦場は、その平野の中央辺りにある。
 姉川橋(野村橋)は、じつに長い。その南岸の橋畔に「史跡 姉川古戦場」という標識が建っている。                                (第24巻 近江散歩・姉川の岸)
 
 1570年、浅井・朝倉軍1万8千と織田・徳川軍3万4千が雌雄を決して激突した古戦場。
 織田方の圧倒的な勝利に終わった。

5,観音の里・湖北


 湖国は観音の里である。県内の文化財観音菩薩は107体、その内、十一面観音は40体で数の多さは日本一で、それも湖北に集中している。奈良・平安時代、湖北は山々に山岳仏教が栄え、方角が近江の鬼門に当たるからだともいわれる。
 戦国時代、数多くの寺院は織田信長・浅井長政をはじめ戦国の兵火に焼かれたが、信仰心の厚い村人が寺々に安置された十一面観音を土中に埋めたりして守り伝えた。今も無住のお堂の十一面観音を村人が当番を決めて守っている。



渡岸寺(向源寺) 十一面観音立像・国宝
 飛鳥時代に建てられた古刹。たおやかで流動感のある姿で全国に知られる檜の一木造りの十一面観音立像は、奈良時代に聖武天皇の勅願により彫られたといわれる。 
 堂々たる量感と秀麗な線が見事であり、最高級の国宝観音仏で密教美術の白眉とされている。
 像高195cm。頭上にうずたかく積み上げられた11の小面と耳飾のほかは、天衣や台座の蓮肉まですべて一本の木で造られたという。
タッチ 
     


国宝の十一面観音は全国で6体しかない(文化庁)
  聖林寺(奈良県桜井市)   道明寺(大阪府藤井寺市)
  観音寺(京都府綴喜郡)   室生寺(奈良県宇陀郡)
  法華寺(奈良市)






★己高閣・世代閣
 鶏足寺の文化財収蔵庫で、己高閣は昭和38年に建設され、鶏足寺本尊の十一面観音(重文)、法華寺の七仏薬師(県指定)不動明王、多聞天、ほか約二十体の仏像が安置されている。

 世代閣は、平成元年の開館で、薬師如来、十二神将三体(以上重文)、魚籃観音、十所権現像、己高山縁起(以上県指定)ほか宝物類が多数収納されている。


己高閣(鶏足寺) 十一面観音立像・重文
 桧一木彫、172cm、彩色、平安初期作。
井上靖の「星と祭」の中で、湖北の村々に十一面観音像を訪ねる主人公が、この像を「村一番の美しい内儀(かみ)さん」と評されている十一面観音。
 
己高閣


十一面観音立像

世代閣




與志漏神社(よしろ)
 当地の氏神で、すさのをのみこと、波多八代宿弥(淡海の祖)を祭神とする延喜式神帳記載の式内社である。
 広大な神域をもち、往古は世代大明神と称し、湖北三郡に氏子を擁するなど神威もまた絶大であったことが窺がえる。



薬師堂(旧戸岩寺)
 旧世代戸岩寺は、715年に僧行基が北西の異光山(現在栗谷と称している)から還したと伝えられいる古刹で、本尊の薬師如来(隣接の世代閣に収蔵)は当地の氏仏として最も信仰をあつめている。





★己高山の歴史と文化
 滋賀県の北北東に位置する伊香、東浅井、坂田、長浜市の一市三郡を湖北と呼んでいますが、この地方は地理的に北陸、東海、近畿の接点であり気候、風土、文化の面でも接点的な事象が顕著に存在している。
 また古くから神々への崇敬心の厚い地方で、延喜式神名帳に記載のいわゆる式内社の多い地域として知られている。
 また仏教文化も早くから若狭ルートの大陸文化と都の影響を受けて、平安期には、己高山鶏足寺を中心に大いに隆盛し、湖北に一つの仏教文化圏が形成されていました。このことは山間に点在する寺院遺跡をはじめ仏像や石塔等によっても窺い知ることができる。


石道寺 十一面観音立像・重文
  726年延法上人の開基の古寺。己高山五箇寺の一つに数えられている。東方約1キロの山間に旧蹟があり、山門跡や礎石で往時を偲ぶことができる。
 現在は高尾寺を併合し、木造十一面観音像を祀る。観音像は彩色が施され、温和な表情となで肩の姿態が印象的。井上靖の「星と祭」の中で、湖北の村々に十一面観音像を訪ねる主人公が、この像を「村の娘を借りたようだ」と感嘆する場面がある。ケヤキ材一木彫、173cm、彩色、平安期。
 ほかに持国天立像と多聞天立像があり、いずれも国の重要文化財である。
 


十一面観音立像



★充満寺・十一面観音像(重文)

 胸のあたりがふっくらとしており、肩は多少ずんぐりとしている。翻波式衣文を残し、全体にどっしりとしていて、平安初期の作とみられる。
医王寺・十一面観音像(重文)

 楠の一本彫で、やわらかな顔つきとすっきりした姿態が特徴。衣文は美しい繊細な線で表現されている。制作年代は不詳だが、十世紀頃だとみられている。



観音寺・伝千手観音像(重文)

 平安初期のもので伝教大師の作とみられる。過度な装飾を廃した優雅高尚な姿態で、裳の中央に渦文があり端厳な精気に満ちた密教系の彫刻。
知善寺・十一面観音坐像(重文)

 表門は長浜城の旧裏門を移築したもの。重文の十一面観音坐像は鎌倉中期の粉溜・漆箔・寄せ木造りで、寺伝によれば運慶の作といわれている。





赤後寺・千手観音像(重文)

 頭上の十一面の化仏や片手が失われているのが惜しまれる。長らく秘仏として村人以外には公開されず、現在は7月10日の千日会以外でも拝観できる。別名コロリ観音として知られている。


6,賤ヶ岳古戦場


 
 むこう岸の天を遮っているのが、賤ヶ岳である。雲が低く、賤ヶ岳の山ひだから霧が湧きあがっているのがみえて、いかにも戦国の一時期の舞台になったこの山を象徴している。
 この合戦は秀吉側の勝利の端緒になった戦闘が賤ヶ岳でおこなわれたため賤ヶ岳合戦とよばれたりするが、両軍の主力がたがいに対峙した地点がこの柳ヶ瀬だったため、柳ヶ瀬合戦と呼ばれたりもする。
 (第4巻 北國街道とその脇街道・栃ノ木峠から柳ヶ瀬へ、余呉から木ノ本へ)

史蹟 賤ヶ岳
 「新雪・賤ヶ岳の大観」として琵琶湖八景の一つに数えられる景勝地。
 1583年、豊臣秀吉と柴田勝家が織田信長亡き後の覇権をかけた合戦の舞台大岩山を柴田勢が陥落させてからは、一気に決戦となり秀吉方が勝利を納めた。頂上までの山道には慰霊碑や武士像があり、古戦場の雰囲気を今に伝えている。
標高423m。


山頂の古戦場跡碑


麓より山頂までリフト利用

賤ヶ岳合戦々没者慰霊社
山頂より余呉湖の眺望


賤ヶ岳七本槍
 天正11年(1583)、秀吉旗下の福島正則を隊長として、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟屋竹則の七人衆が一番槍の武功をたてたところから「賤ヶ岳七本槍」の武勇談として世に語られる。


7,奥琵琶湖パークウェイ


 
 西浅井町の月出峠から大浦まで、葛籠尾半島の尾根を縫うように走る全長18.8キロのドライブウェイ。コースのところどころから見える琵琶湖の青と岬の緑や紅葉のコントラストが美しい。
 途中の展望台からは、琵琶湖周辺の山々のパノラマや竹生島の幻想的な景色が眺められる。

8,白髭神社(しらひげ)


 「小松(北小松)」という古い漁港がある。(中略) この漁港から湖岸をわずかに北へ行くと、山がいよいよ湖にせまり、その山肌を石垣でやっと食いとめているといったふうの近江最古の神社がある。白髭神社という。「正体は猿田彦也」といわれるが、最近、白髭は新羅のことだという説もあって・・・・・      (第1巻 湖西のみち・楽波の志賀より)



 「白髭さん」の通称で広く親しまれている近江最古の大社。
「近江の厳島」とも称され、湖中に立つ朱塗りの鳥居が、湖面に影を映している景観は一見の値。
 1942年、大阪道修町の小西久兵衛が寄進。現在の鳥居は、琵琶湖総合開発による水位低下を予想して沖にだされた。
 現在の社殿は、1603年秀吉の遺命で秀頼が修履。普請奉行が片桐且元。1938年(昭和13)、国の重要文化財指定。
 全国に末社が375社あり、境内には、与謝野鉄幹・晶子、松尾芭蕉、紫式部などの歌碑がある。




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