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扶 余 (定林寺址・国立扶余博物館)

扶 余 (定林寺址・国立扶余博物館)

●定林寺址・国立扶余博物館 白馬江・皐蘭寺

 
 扶余・定林寺址では、昨年度の歴史街道倶楽部・海外企画第1弾で訪問した折り、お願いした講師の李夕湖先生が出迎えてくださった。李先生は、司馬遼太郎の「韓(から)のくに紀行」にも登場する百済史の第一人者でもある。現在は国史編纂史料調査委員をされている。
今回も熱烈な百済へ郷愁を込めた歴史ロマンを語っていただいた。



定林寺址(チョンニムサジ)
石塔と石仏のみが残された大伽藍址 
 土塀に囲まれた広々とした敷地に、気品ある五重の石塔がポツンと残っているが、百済時代にはここに塔、金堂、中門講堂が一直線に並ぶ大伽藍があった。
 韓国の代表的な石塔寺院であったと言われ、花崗岩で高さ8.33mのこの5層石塔は優雅で気品があり、千数百年間完全な形で保存されてきた。夕日のかかったこの石塔の風景は、扶余8景のひとつといわれている。
 また、この寺院は、宝物108号に指定されている石仏座像がある。
1942年の発掘調査の際、「定林寺」という文字が刻まれた高麗時代の瓦のかけらが出土されたことにより定林寺とよばれるようになった。



石塔にて:
李夕湖先生の雄弁な説明!
故郷扶余への思い入れが伝わってきた。
石仏座像:高い台座の上に座っており、現在では
火災と激しい磨耗によって仏身の形態がやっと
見分けられるだけであるが、昆盧舎那仏であると
推定されている。



国立扶余博物館
日本にも伝えられた
百済仏教文化の宝庫
 古代建築様式に模した合掌造りの建築には、先史時代以降の遺物が展示されていますが、中心はもちろん百済時代で、この地で花開いた仏教文化の真髄を見ることができる。
 特に1994年に陵山里古墳群近くの建物の跡地で発掘された「百済金銅大香炉」が永久保存処理過程を経て展示されており、この博物館を一層価値のある
場所にしている。
 また、法隆寺などで発見された丸瓦の祖型と言われる蓮華文瓦を始め、日本との関わりを明かす貴重な資料が興味を引くことだろう。




瑞山(ソサン)磨崖三尊仏像:
 中央に如来像、右に半跏思惟像、左には菩薩立像が彫刻されている。本尊仏である如来像の高さが、2.8mで三尊仏がみな明るい笑顔を見せていることから、“百済の微笑”という愛称で呼ばれている。
博物館入口のロビーで日本語の展示物説明受信器の貸し出しを行っている。


      百済の仏像
 高句麗の仏像が中国北朝の影響を受けている一方で、百済は南朝の影響を強く受けた。高句麗の仏像は鋭く、強靭な感じがするのに比べて、百済の仏像は温和で人間的な感じがする。
 日本の法隆寺の百済観音や広隆寺の木造半跏思惟像、そして中宮寺の半跏思惟像は百済人によって作られた仏像である。繊細でありながら生動感が息づく感覚的表現や、静かに瞑想にふける慈悲にあふれた微笑は、百済人でなくては作れない仏像である。
 京都の広隆寺にある木造弥勒菩薩半跏思惟像は、日本の国宝第1号に指定されているが、広隆寺由来記には「百済から聖徳太子に伝えられた仏像で、座像2尺8寸」と記録されており、百済からのものであることが明示されている。また当時、飛鳥仏教が圧倒的に百済仏教の影響下にあったため、広隆寺も例外ではあり得ない。百済から伝わった飛鳥時代初期の仏教美術は百済文化の影響を受けたため、この時代の仏像は一般的には渡来様式”といわれているが、これはまさに百済文化という意味である。
 また、百済は瑞山磨崖仏や泰安(テアン)磨崖仏のように岩壁にも仏像を彫刻したが、これは百済人の自然主義的思考が作り出したもので、後に新羅に伝わり、新羅には数多くの磨崖仏が造成された。


●白馬江・皐蘭寺




 昨年、この白馬江で見た素晴らしい夕照が目に焼きついて忘れられなかった。当初の行程では昼頃の予定であったが、何とか参加者の皆さんにも白馬江の夕照を鑑賞していただこうと、現地のツアーガイドと行程の調整を行い、夕刻に白馬江に訪れることにした。
 夕照の見ごろはわずかな時間であり、日没の時間と遊覧船の発着時間との調整に苦労した。(李先生に申し訳ないが、熱弁の説明時間の調整が一番気苦労が多かった)
 そのかいあって、夕照の鑑賞時間わずか10分程度であったが、夕陽が白馬江を照らし始め、刻々と山影に沈み行く白馬江の夕照は、言葉では言い表せないくらい素晴らしかった。参加者からは「ガンジス川の夕照よりもきれい!」と感激される声も・・・・。
 



白馬江下りや扶蘇山散策で偲ぶ
百済王朝滅亡の悲しい物語
 錦江の下流地域で、広い川幅と緩やかな流れ、白い砂州と緑の山並みが調和し、大陸的な風景を作り出している。
遊覧船乗船場


 白馬江(ペンマガン)を船で進むと、落下岩(ナクファアム)の断崖が迫るが、この岩の上の百花亭には、悲しい伝説がある。
 百済が新羅軍に攻められた際、後宮にいた3000人の官女が生きて辱めを受けることを潔しとせず、ここから身を投じた。官女達が次々と身投げする姿が、まるでツツジの花がハラハラと落ちるように見えたことから落花岩の名がつけられたという。
落花岩


 その官女達を祀る寺院が皐蘭寺(コランサ)で、本堂裏の湧き水は百済王が甘露といって愛飲したと伝えられている。
皐蘭寺


 李先生の百済伝説の熱弁が時を経つのを忘れさせてくれる。


李先生、絵物語を熱弁



皐蘭寺から白馬江眺望
白馬江の夕照


        百済と日本の深〜い関係
 百済は、日本との関わりの深い国でした。日本書紀によれば、284年に百済王が馬2頭を送ったのが始まり、4世紀の中頃王仁博士が論語と千文字を伝え、513年にはあの武寧王が五経博士を遣わし、552年、扶余に都を定めた聖王が仏教を伝えました。588年飛鳥寺造営の時を初め、百済の技術者も多く来日しています。定林寺址の石塔に酷似した五重の石塔も、滋賀県に残っています。また、587年には日本から3人の尼僧が扶余に修行に来て帰国後四天王寺建立などに携ったと言います。
 660年に百済が滅亡したとき、日本には義慈王の王子がおり、百済では王朝再興のためこの王子の帰国と援軍を要請しました。大化の改新から15年しか経っていない日本でしたが、3回に渡って兵を送り、結局新羅・唐連合軍にはかなわず、663年錦江河口の白馬江で敗れてしまいます。百済の滅亡の後、その後の日本文化に大きな影響を与えました。
 韓国では、百済は歴史の中にしか残っていないが、日本には百済川や百済駅、百済寺、百済神社があり、百済という姓を名乗る人もいる。それほどに百済は日本の古代文化と深く関わっていたのである。


李先生の言葉が浮かんできた。
「今、扶余(百済)には何も残っていない。だが、百済の文化がどんなに素晴らしいものだったかは、飛鳥や奈良に行けば分かる・・・・」


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